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平和の園におけるテレビ番組の取材

2018/03/02 (Fri)

写真4

  平成29年5月24日(水)に、BS朝日によるテレビ番組「ドキュメンタリー」の取材が、平和の園で行われることになりました。
  以下は、その一部始終です。
平成29年3月20日頃   
BS朝日のテレビ番組「ドキュメンタリー」を制作するため、(株)フレックス  東京都港区西麻布1-2-9EXタワー10F  デレクターの御手洗 志帆(みたらい しほ)女史が番組の企画書(12ページ)をもって、戸坂の自宅を訪問されました。
企画書には、原爆が奪った…「安田高女」315名の"帰らざる青春"と題し、いしぶみに刻まれた名前を訪ね歩き、何も訴えることもできずに亡くなった「安田高女」一人ひとりの無念や帰らぬ青春、生きた証を遺し、伝えたい。さらに、母校の悲劇を繰り返させぬため、桜の苗木を各地に配っている、現在の生徒たちの「平和への願い」も伝えたい。と、書かれてあり、それを説明されました。
「 この番組は、安田高等女学校の生徒に焦点を当てた番組なので、安田高女の皆田俊子さんの弟で、平和の園の施主、皆田正明さんを、ぜひ、番組で紹介させていただきたい。」とのことでした。なお、「取材は後日、現地――平和の園で行いたい。」といわれました。
私は、テレビカメラがわがふるさと下三田下大椿に入ることとなる前代未聞のこの企画に対して、「大賛成です。喜んで取材に協力しますから、その具体的内容が決まったら、御連絡ください。」と快諾いたしました。

企画書表紙


    平成29年5月24日(水)
  東京から番組デレクターの御手洗志帆女史とテレビカメラマン2人が来広され、戸坂の自宅に来られましたが、当日は、あいにく、雨模様の天気でしたので、まず、戸坂の自宅で取材し、その後、現地の平和の園で撮影することになりました。
  その時のインタビューの内容は、次のとおりです。

写真1

自宅にて
御手洗志帆
  原爆をテーマとした曲をピアノ演奏していらっしゃる様子を撮影いたしたいと思います。その曲を作った動機や思いを、教えてください。
皆田正明
  それでは、2曲だけ弾きます。最初の曲は、多和田さち子作詞、皆田正明作曲「あなたに会えるまち」という曲です。 この曲は、平成12年に広島市が募集していた「広島の歌」に多和田さち子女史が応募され、広島の歌の候補作に選ばれていた歌詞に、市の紹介により、私が曲をつけさせていただいたものです。原爆で、姉を亡くしている私は、特に、2番の歌詞に魅かれ、曲をつける意欲がわきました。本曲からは、若い女性の初々しさ、ロマンチックな思いが心地よく伝わってきます。
                                 (演奏)
  次に演奏します曲は、私皆田正明作曲の「愛の祈り」という曲です。この曲は、ピアノの音だけで情景を表現した曲ですから歌詞はありません。原爆は、非常に多くの人々の命を奪い去り、遺された人々の心に決して癒すことができない、深い嘆き悲しみを残しました。遺された者は、天寿を全うできず、無残な死を遂げた人々のため、慟哭の涙を流し、冥福を祈り、「戦争は二度とくりかえしません。」と、固く心に誓ったのでした。本曲は、原爆で最愛の家族や恋人などを亡くした人々が、8月6日の夜、平和公園の原爆ド―ム西側の川面を静かに流れ行く灯ろうに、合掌して一心に祈りをささげている人々の姿が、もの悲しくわびしいメロデイにより、くっきりと描き出されています。
                                 (演奏)

写真2

平和の園にて
皆田正明
  本日は、ようこそ、平和の園に御来園いただきまして、誠にありがとうございます。
  私は、戦争なかんずく原爆がもたらした悲惨さと、その犠牲の上に築かれた平和の大切さ尊さを、音楽――歌によって広く世に訴え、かつ、これを後世に伝えるため、歌碑と音楽ボックスが設置されたユニークな庭園――いわば、音楽庭園ともいえる――この平和の園を、私財をなげうって造りました。平和の園は、園内の美しい草花や音楽――歌を見聞きして、平和への思いを新たにする憩いの場として、平成18年4月30日に竣工し、同年10月1日に開園しましたが、このたび、この隣に新しく駐車場が整備され、観光バスの乗り入れも可能になりました。さて、園内の管理棟の中には、音楽ボックスの管理機器があり、資料展示ケースには、姉の写真や私―施主の著作物などが展示されています。また、園内には、歌碑が5基、平和のモットーを刻んだ訓碑が3基あります。歌碑の右前方には音楽ボックスが設置されており、ボタンを押せば、歌を聴くことができます。歌碑は、にんげんをかえせ、折鶴の歌、平和の園、あなたに会えるまち、平和の鐘があり、平和のモットーを刻んだ訓碑は、思いやりの碑、感謝の碑、愛の碑があります。
御手洗志帆
  平和の園を造ったきっかけを、教えてください。
皆田正明
  もしも、私が原爆で誰も亡くしていなかったら、おそらく、私の平和に対する関心は薄く、平和の園の造園など、まったく考えもしなかったでしょう。姉の原爆による無残な死は、命の大切さ、平和の尊さを、身をもって私に教えてくれました。この死を無駄にしてはならない、そう決心した私は、私の得意な音楽―歌で、それを世の人々に、訴えようとして、これがきっかけで平和の園ができました。

写真3

御手洗志帆
  原爆で亡くなられた姉さんは、どのような方でしたか。
皆田正明
姉は、母の自慢の子で、利発で勝気な女の子でした。学校の通信簿は、オール優で、優が一つもない私は、いつも母をがっかりさせていたに違いありません。まりつきが得意な少女でした。また、草花も好きだったようです。特に、アネモネや松葉ボタンが好きだったようで、みんなに見せて喜んでいました。幼少期に、ふる里の田んぼで、初夏にクローバーや蓮華の花を摘んで、姉と首飾りを作って遊んだ昔のことが、懐かしく思い出されます。姉は、私にとっては、いろいろなことを教えてくれたり、ある時は、私をかばってくれた、本当に、優しい姉だったのです。
御手洗志帆
  8月6日、当日の俊子さんの行動について、お母様から聞いたことがあれば教えてください。
皆田正明
  母からは、8月6日当日の姉の行動について、何も聞いていませんが、午前5時に起きて広島に行った孫娘を見送った祖母は、「何度も後を振り返り、元気よく手を振りながら、あの下大椿橋を渡って行ったのが、俊子を見た最期じゃった、……。あの時の俊子の笑顔が忘れられん。」と涙ながらに語るのでした。かくて、これからわが身に起こる恐ろしい悲劇を、まったく知らない姉の俊子は、忽然として不帰の客になってしまったのです。その日は、夕方になって、あたりが薄暗くなったころ、やっと広島からボロボロにちぎれた服をぶら下げ、手や足にひどいやけどやけがをした人が数人、よろよろと重い足取りで、帰ってこられました。アゝ、もしかしたら、姉さんも帰ってきたんじゃないかしら。近づいてよくみると、どの人もどこの誰かわからないほど、ひどく傷ついていましたが、その人たちの中には、姉はいませんでした。その日は、夜遅くまで待ち続けましたが、翌日になっても、姉はとうとう帰ってきませんでした。
御手洗志帆
  その後、俊子さんの遺体は発見できましたか。
皆田正明
  さあ、大変なことになりました。両親の心配は、一方でなく、早速、翌日の7日、広島に探しに行きました。けれども、広島駅がひどい被害を受け、芸備線は、その手前の矢賀駅までしか行けない状態ですし、広島市内の橋は壊れ、道路上にもいろいろな物が散乱して通れない有様なので、とても探すことはできなかったと、がっかりして、夕方遅く帰ってきました。原爆が投下されて数日後、私は、父母に連れられて、原爆のすさまじい破壊力、熱線の物凄さを目の当たりにしながら、見渡す限り焼け野原になり、廃墟と化した広島市内を一日中、炎天下、足を棒にして姉を探して歩き回りましたが、どうしても、見つけることができませんでした。姉は、今なお、消息不明のままです。
御手洗志帆
  御両親の俊子さんへの思いを、聞かせてください。
皆田正明
  いとし子を亡くした両親の嘆き悲しみ、とりわけ、わが娘を亡くした母親の嘆き悲しみは、どんな言葉でも言い表せないほど、深かったに、違いありません。

企画書P1

御手洗志帆
  今年、戦後72年を迎えますが、改めて、原爆について思うことがございますか。原爆でお姉さんを亡くされたことも踏まえて、平和への思いを、お聞かせください。
皆田正明
  私の姉は、動員学徒として、広島へ行って被爆し、わずか12歳の若さで亡くなりました。当時、安田高等女学校(現在の中学校)の1年生だった姉は、材木町で建物疎開の作業中に被爆したらしいことがわかりました。材木町といえば、平和記念公園の平和記念資料館が建っているあたりで、爆心地から数百メートルのところですから、原爆が落ちたときは、おそらく、爆風で木の葉のように数十メートル飛ばされて即死したか、倒壊した建物の下敷きになり、助けも呼べずに、焼け死んだに違いありません。アゝ、何という悲惨なむごい死に方でしょう。この世の生き地獄そのままでは、ありませんか。私は、「このような悲劇が二度とあってはならない。起こしてはならない。」と、固く心に誓いました。
  人類が初めて造った核兵器――原子爆弾により未曽有の戦禍を受けたわが国は、戦後、この戦争を深く反省し、不戦の誓いをたて、戦争放棄を規定した、世界に誇り得る平和憲法を制定し、軍国主義の国から、恒久平和を世界のどの国よりも切実に希求する、平和主義の国に変身しました。しかしながら、戦後72年もたった今日では、戦争なかんずく原爆による未曽有の悲惨な体験者も少なくなり、その記憶も次第に風化し、平和に対する関心は、次第に薄れてきました。その上さらに、北朝鮮とアメリカの軍事対立が激化し、核の恐怖が日本に迫りつつある中で、70数年間日本の平和を守り続けてきた平和憲法さえも改正されようとしている現在、私たちは、戦争――原爆がもたらした悲惨な体験を厳しい教訓として、命の大切さ、平和の尊さを、いま一度真剣に考え、認識を一層深めなければなりません。戦争なかんずく原爆の悲惨さ恐ろしさを体験していない人々が大多数となってきた現在、この現実に直面して、わが国は、戦後の反省により不戦を誓った固い決意も揺らぎ、今や、戦争ができない国から、できる国に変貌しつつあるのは、誠に遺憾で、わが国の将来に一抹の不安さえ感じさせます。
  今こそ、戦争の惨禍を厳しい教訓として、命の大切さ、平和の尊さを自覚し、戦争を避けるため、あらゆる努力をすることが、私たち一人一人に求められているのではないでしょうか。私たちは、断じて、今後も、戦争に加わったり、巻き込まれるようなことがあってはなりません。それゆえ、非常に多数の尊い命の犠牲の末に制定された平和憲法は、どんなことがあっても、死守しなければなりません。平和憲法を死守し、恒久平和の実現に向けて、私たち一人一人がたゆまぬ努力をすることこそ、戦争の犠牲になった御霊への何よりの供養になると、私は確信します。私は、平和について、ただ単に語り祈るだけでなく、、これを創造し、守るため、必死で不断の努力をする人でありたいと、願っています。
  しかしながら、私たち人間は、遺憾ながら、今までに何度も戦争の歴史を繰り返しており、ついに、人類存亡の危機をも招きかねない史上最悪の核兵器――原水爆を持ってしまいました。しかしながら、核兵器を造ったのが人間ならば、これを使用するのも人間であります。戦争か平和か、核兵器を使用するか否か、――その鍵をにぎっているのは、まぎれもなく私たち人間です。
戦争は、兵器によって起きるのではありません。人間が持っている心の闇――利己心、憎悪の心などが戦争を引き起こすのです。換言すれば、戦争は、自国の利益に固執し、相手国に対する思いやりを持たないため起こるのです。
  真の平和、――恒久平和は、まず、自らの心を浄化し、愛の心を育むところから始まります。すなわち、この世から戦争をなくし、真の平和を築く第一歩は、心の闇に光をあて、心を癒し浄化することから始まるのです。平和の園の美しい草花や音楽――歌は、正に、その光となるに違いありません。そして、その浄化された美しい心に、私たちみんなが平和の灯火を、一つずつ、ひとつずつ着実にともしていけば、それは、やがて巨大な光となって、世界の隅々まで照らすことになるでしょう。
  私たち、人間の世が、今後も末永く続くことを望むならば、沢山の生命や財産を奪いつくす愚かな戦争を、「いかなる時も、決してしない。」という強固な意志が私たち一人一人になくてはなりません。やむなく、他国と諍いが生じたとしても、安易に、相手国を敵視し、制裁を加えたり、武力による威圧、報復は、行うべきでなく、あくまでも、外交により、お互いの国の実情や言い分を、双方がよく理解しあい、譲歩しあって解決をはかるべきです。世界中のみんながお互いに不戦を誓いあい、相互扶助という愛の絆で結ばれて、ともに夢と希望に満ちた明るい未来を共有するよう努力すれば、恒久平和の実現も、決して見果てぬ夢ではありません。平和の園は、正に、愛の花園であります。その中で最も美しく咲く花は、あなたの心の中にあります。四季折々に咲く美しい草花や音楽―歌、それをこよなく愛されるあなたの清らかな美しい心によって育まれた、その人間愛こそ、きっと、世界を真の平和に導く原動力となるに違いありません。
  平和の園の園内に刻まれた平和の歌をみんなで歌って、戦禍に散った人々の冥福を祈り、全世界にくまなく平和が訪れ、それがいつまでも続くよう願って祈りを捧げている――この被爆地広島の切なる思い、姿を、インターネットにより、世界に発信しようではありませんか。

企画書P2

平成29年8月10日(木)
  テレビ BS朝日のザ・ドキュメンタリーの番組で、ヒロシマ女生徒の悲劇――発見! 原爆の極秘資料追跡ドキュメントが、8月10日午後7時から8時54分まて(約2時間)、放映されました。その内容について、当日の中国新聞は、廃墟となった市内の原爆ドームの写真を掲載し、次のように報じました。
  原子爆弾投下後の広島・長崎で、米軍が日米の医学者を動員して実施した「合同調査」の真の目的は、何だったのか。その報告書の中で、長らく極秘扱いされていた文書の中に、広島の「安田高等女学校」の原爆死傷者研究があった。その日、安田高女の生徒たちは、市内の5カ所に分散して勤労奉仕に従事していたが、午前8時15分の原爆投下によって、校舎も寄宿舎も一瞬にして倒壊し、あたり一面は火の海になった。終戦後、小学校の講堂で授業を再開させた安田高女のもとに、合同調査団がやってきた。生き残った生徒たちへの被爆調査は、実は、重大な意味を持っていたという=写真は一場面。

企画書P3